
プロフィールというには少し長すぎるけど。
写真を仕事にする前と、したあとで変わったこと
こんにちは。
写真家、写真講師、そしてコンサルタントとして活動している寺田です。
これまでのべ4,500人を超える受講生と向き合い、ママフォトグラファー育成を中心に、写真を軸にした“自分らしい生き方”のサポートをしてきました。
今は、沖縄を拠点に、家族のそばで働くこと、自分のペースで創ること、そして学び続けることを大切にしています。

2026年春には、琉球大学・知能情報コースに進学予定です。(長男と一緒に!)
人生後半のリスキリング。AIの波にただ飲まれるのではなく、自分で乗りこなしていくための挑戦です。
過去にとらわれず、未来を自分で作っていきたい。
そんな想いが、写真にも、言葉にも、仕事にも、にじんでいるとしたら───ちょっと嬉しいです。

活動紹介

写真との出会いは、育児中のカメラ。
小さな我が子を撮りたくて始めたのが、気づけばライフワークに。
今では、撮影だけでなく、講座やコンサルを通じて
ママフォトグラファーたちの「好き」を「仕事」に変えるお手伝いをしています。
目の前の一人を大切にしながら、可能性を信じて伴走する。
そんなスタンスを軸に、少人数制・個別対応をベースとした講座設計をしています。
教えることも、撮ることも、伝えることも。
ぜんぶ「その人らしさ」を引き出すための手段だと思っています。
実績紹介
これまでに、のべ4,500人以上の方が講座やセッションを受講。
「写真を仕事にしたい」「自分の世界観を形にしたい」そんな思いを持った方々と、ゼロから一緒に走ってきました。

Instagramでは、2万人を超えるフォロワーの方と日々つながりながら、作品や言葉を通して「伝える力」を磨きつづけています。
撮影に来てくれたご家族も、講座を受けてくれた生徒さんも、みんな、かけがえのない“共犯者”たちです。
誰一人、通りすがりでは終わらせない。それが、僕のやり方です。
ここからは、僕の過去について話させてください。
ちょっと長いですが、お付き合いいただけると嬉しいです。

Chapter1
不自由だったあのころ
中学時代、僕は“変わった子”だった。
予習・授業・復習を徹底して、試験勉強は一切しない。
なのに、常に学年トップをキープしていた。遊んでいるように見えて、なぜか成績がいい。
そのギャップに驚かれたり、疑問視されたりもした。


「これからはコンピュータの時代だ」
そう思って進学したのは、地元の国立高専・情報工学科。田舎では学びきれないと感じて、就職で東京に出た。
20代。食品メーカーのIT部門に就職し、朝から深夜まで働く日々が始まった。
上司は鬼教官のような職人気質でストイックな人。職場と寮の往復、休日は疲れて寝るだけ。
このころが本当に辛かった(Ver1.0)

ストレス発散で買ったスポーツカーが、先輩の運転で事故。
リセールバリューがダダ下がり(涙)
でも、この時期に“教えるスキル”の萌芽があった。
社内のITサポートとして、電話でパソコン操作を教えるという無理ゲーを任されていた。
相手は全国の女性営業サポート職員たち。論理的に、でもやさしく説明する必要があった。
徐々に信頼を得て、「パソコンといえば寺田」と社内で認知されるようになる。
30代。波乱万丈なサラリーマン人生が続く。プロジェクトを任され、胃がいたい毎日。
作業量・納期・プレッシャー。唐突な部署異動。
親会社への出向。高学歴の上司の下で、コマ使い的な扱い。
このころが本当に辛かった(Ver2.0)。
そこから、何くそ根性で道を切り開いた。
コンテンツマーケティング、VR、CRM、チャットボット──すべて当時としては最先端。
やがてやがて管理職登用試験でS判定を取り、上司も驚く結果に。

そんなとき、初めて一眼レフ「EOS Kiss」と出会う。
黒くて無骨なのに、名前はKiss。男心をくすぐるそのカメラが、やがて僕の人生を変える。
星景写真にハマり、生活の一部になるまでに没頭する。




40代。組織への違和感が強くなる。
部署間の紛争に巻き込まれ、板挟み。火消しと感情の調整役を担うなか、自分が鬱になる。
不眠と動悸で会社に行くのが怖くなった。
このときが本当に辛かった(Ver3.0)。
「もう無理かも」と思いながら、「写真 仕事」で検索。
ある講座の「自分の限界を決めているのは、いつも自分」という言葉に心を打たれ、即申し込み。
最後には「これでいいの?」と思えるくらい、ハードルが下がっていた。
── そして、人生は静かに動き始める。

Chapter2
枠組みから飛び出して
(場所と時間の自由)
当時の自分には、安定という名の「正解」があった。
大企業の管理職という肩書き、21年間積み上げてきたキャリア。
ローンが残るマンション。家族。生活費。教育費。
誰がどう見ても「辞めるなんて無謀」と思う状況だった。
実際、同僚も家族も「写真で食べていくなんて無理だよ」と言った。
それでも、どこかで感じていた。このままいったら、魂ごと枯れてしまうかもしれない──と。
決断の瞬間は、今でも正確には思い出せない。けれど確かに、何かが背中を押した。
「なんとかなる。これまでだって全部そうだった。
確実な未来なんて、いつもひとつもなかった」
そうして、自分の人生が“自分軸”で動き始めた。

2019年夏、42歳で21年間勤めた会社を退職。
肩書きも、保障も、誰かの承認もない世界へと足を踏み入れた。
やるも自由、やらないのも自由。時間が無限にあるような気がした。
会社ではなく「自分」として感謝される存在になりたくて、Instagramでの発信を開始。
思いのほかバズって、半年でフォロワーが約3,000人に。
誰かに与えられた役割ではなく、自分が選んだ肩書きで生きる。
このとき初めて、時間と場所の自由を、手のひらで確かに感じた。

Chapter3
想いとお金の間で
(お金の自由)
会社を辞めたとはいえ、生活は待ってくれない。
最初の半年は、収入がほとんどなかった。だが、それも“準備期間”と割り切っていた。
ある日、偶然出会ったヘアスタイリストと意気投合
し、北千住に小さなフォトスタジオを開業することに。
退職金の半分──約300万円を突っ込んだ。
2020年2月のことだ。

だがその直後、コロナが世界を襲う。
3月には状況が怪しくなり、4月には緊急事態宣言。スタジオは営業停止、売上はゼロ、固定費だけがが重くのしかかる。
給付金と休業協力金を頼りに、かろうじて生き延びた。生活は苦しかった。家族もいる。何より、目の前の現実が怖かった。
でも──この絶望の中で、エンジンがかかった。


「やれることは、全部やる」
その一心で、インスタライブを始めた。楽しくて、ためになって、元気が出る。
そんなライブが話題になり、同時接続が100人を超えることもあった。
翌年2月には、ZOOMでの個別フォトセッションを開始。
キャンペーン価格は、90分3,500円。受けた人からは「コスパがやばい」と噂になり、70人近くををセッションした(当然、大変だった)。
勢いそのままに、「フォトグラファー養成講座」の原型となる講座を開講。モニター5名の募集に対し、24名が応募。驚きつつも、全員受け入れた。
さらにプロ向けコースも並走し、第1期は総勢34名でスタート。
一般コースの24名に、1人5回のPR投稿を依頼。合計120本の口コミがInstagramに溢れた。
結果、第2期は“1秒”で満席になった。
この頃から、僕の中に別のベクトルが生まれ始める。

最初は「他者貢献」。誰かの役に立ちたい。それだけだった。
でもいつの間にか、「自己実現」──自分のブランドをどう育てるか、どこまでいけるか、を意識するようになっていた。
ガツガツしていると思われたくない。でも、お金は大事。
それでも僕は、価格を維持した。
なぜなら「お!値段以上」と言ってもらえることが、嬉しかったからだ。
2022年1月、インスタの投稿スタイルをリニューアル。
キャプション中心から、画像訴求へ。
2本目の投稿がバズった。65万リーチ、6,000いいね、1.6万保存。
たった5日でフォロワーが8,000人増え、1.2万人を超えた。

それでも、サービスの価格は変えなかった。
褒められたい。驚かれたい。お得と思われたい。
そんな“承認欲求の美学”が自分の中にある事もわかっていた。
こうして、ママカメラ界隈で、“コスパのいい先生”としての地位を確立する一方で、
収入は安定せず、どこかで限界も感じていた。
──それでも、あのときは「生きている」って感じがしてた。

Chapter4
自己という名の鎧を捨てる挑戦
(心の自由)
2022年。カメラ講師界隈は飽和していた。
コロナ禍で爆発的に増えた「養成講座ビジネス」。
右も左も“先生”だらけ。以前は仲間だった人たちが、いつの間にか競合になっていた。
自分だけのブランドだったはずのものが、少しずつ“よくあるもの”になっていく。
見えない競争のなかで、嫉妬、妬み、焦り、優越感、劣等感───
一言で言い表せないような感情が、自分の中に渦巻いていた。
「もう、こういうのから自由になりたい」
そう思ったのが、最初のきっかけだった。
環境を変えようと思った。




2023年の春。妻に「沖縄に移住しない?」
現実できるかわからなかったけど、彼女の表情はまんざらでもなかった。
そうして少しずつ足場を固めていった。
子どもたちへの説明、引っ越しの費用の算段、仕事の切り替え。剛腕ではなく、調整型で進めていく。
そして2024年春、家族で沖縄に移住。
海の音と、風の匂いと、知らない景色に包まれた新しい日々が始まった。
顧客層も変える必要があった。
情報感度の高いカメラママではなく、
「何かを変えたいけど、一歩が踏み出せない」人たちへ届けたいと思った。
だが、その結果、拡散力は落ちた。
以前のような“バズ”やだ“爆発的な申し込み”は減っていった。
どこかで、「あの頃の栄光をもう一度」という思いもあった。
でも、気づいていた。
それは“鎧”だった。

「コスパのいい先生」という防具であり、武器だった。
そのブランドに感謝しつつ、そっと手放した。
価格は、内容ではなく、受け取り手の解釈で決まる。
ならば、媚びずに、堂々と自分を信じて出していこう。
そうして僕は、“自己という名の鎧”を脱ぎ捨てた。

Chapter5
これからの自由
今、僕は自由だ。
でも、満足はしていない。というより、「満足していたくない」と思っている。
なぜなら、停滞は不自由だからだ。
だから2026年春、僕は大学生になる。
長男と一緒に、琉球大学・知能情報コースに進学する。
人生後半のリスキリング。
AIの波に飲まれる側じゃなく、乗りこなす側に立ちたい。
でも本当の理由は、もっと感覚的なものかもしれない。
価値観のアップデート。若い人との接点。新しい刺激。
挑戦している父親の背中”を子どもたちに見せたい、という想いもある。

自由とは、選択肢が多いことではない。
自由とは、「何を選び、どう責任をとるか」を自分で決められることだ。
選んだ先に、どんな景色が待っていようとも、
そのすべてを自分の成長につなげていけるなら、
それは“自由な人生”だと思う。

自由は、簡単じゃない。
むしろ、もっとも厳しい生き方かもしれない。
だからこそ、僕たちは本能的に自由を恐れ、同時に求める。
理由なんていらない。躊躇も、いらない。
自由を望むことは、それ自体が人間らしさなのだと思う。

Chapter6
次はあなたの番です
僕の自由の旅は、まだ道半ばだ。
でもここまで歩いてきたからこそ見える景色がある。
そして、それを誰かに共有したいと思っている。
今、一歩踏み出せずにいるなら──
未来の明るいビジョンを、前のめりでのぞいてみてほしい。

「こんな未来いいな」
「こんな私ちょっと好きかも」
そんなふうに、心の中でつぶやいてみるだけでいい。
そしたら、きっと自然と足が前に出るから。
自由は、遠くにあるものじゃない。
“今ここ”からはじめられるものだと思う。
だから、先で待ってる。焦らなくていい。
でも、もし来るなら、全力で歓迎する。
自由になるって、最高に人間らしい選択だから。

お手伝いできること
僕が今、お届けできるのは「自由への道筋」をともに歩くサービスです。
写真をきっかけに、自分を取り戻す人。言葉をきっかけに、自分を信じる人。仲間と出会い、自分の可能性を広げる人。
どんなきっかけでも構いません。あなたが“自分の人生”を取り戻したいと思ったとき、そっと手を差し伸べられる存在でありたい。
そのために、僕のサービスはあります。
- 写真を仕事にしたい方向けのフォトグラファー養成講座
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すべてのサービスは、「その人らしさ」が輪郭を取り戻すために設計されています。
自分で決めて、自分の言葉で、自分の未来を選び取る。
もし、そんな旅に出る準備ができたら──いつでも、ここにいます。